スマホで十分な日もある。カメラとの現実的な使い分けを考えた話

カメラで写真を撮っていると、ふと「スマホだと物足りない」と感じることはありませんか。 私自身、カメラが、そしてカメラで撮った写真の質感が好きで、できることならすべての日常をカメラで残したい、とすら思っています。
ただ、現実はそう簡単にいきません。 家事に、仕事に、育児に、勉強に。現代人の日常は、とにかくやるべきタスクであふれかえっています。 気づけば、土日の外出時にカメラを持ち出す余裕がなくなり、手元にあるスマホばかりで写真を撮っている自分がいました。
そんな時間を経て、ようやく自分の中で腑に落ちた、スマホとカメラの現実的な使い分けについて書いておきたいと思います。
日常のタスクの波にのまれ、カメラを持ち出せなかった日々
直近の1ヶ月は、まさに怒涛の日々でした。 仕事でのトラブル対応による連日の長時間残業、まだ0歳の息子の育児と体調不良、さらに、私はとある分野の研究者でもあり、その論文執筆が重なる。文字通り「カメラどころではない」状態が続いていました。
出かける際に、カバンにカメラを入れる。たったそれだけのハードルが、心身ともに余裕がない状態だと、驚くほど高く感じてしまうのです。
「まあ、スマホは持ってるし、何かあればこれで撮ればいいか」
そうやってカメラを家に置いたまま出かける日が続き、気づけば1ヶ月、カメラを外に持ち出していませんでした。
スマホの「雑になれる気楽さ」に助けられた

もちろん、完全に写真を撮っていなかったわけではありません。家の中ではたまにカメラで息子の写真を撮ることもありましたが、圧倒的に出番が多かったのはスマホです。
寝起きの顔をくしゃくしゃにしながらの伸び、ミルクを飲んだあとの満足げな顔など、それらはすべて、手元においていたスマホだったから残せたものでした。
ここで気づいたのが、スマホとカメラの「心のハードル」の違いです。 私の場合、カメラを構えると、どうしても「ちゃんと撮ろう」という気持ちが働いてしまいます。 構図はどうしよう、光の向きはどちらだろう、露出は問題ないか、と無意識に考えて写真を撮ってしまうのです。
一方で、スマホはいい意味でも悪い意味でも「雑になれる」。 しっかり考えた構図じゃなくてもいい、ちょっと部屋が散らかっていてもいい。「今、この瞬間」をただ記録するためだけに、とりあえずシャッターを切れる。
抱っこで両手が塞がりがちな新生児の育児において、この「雑になれる気楽さ」は軽さ以上の圧倒的な正義でした。もしカメラで「ちゃんと撮ろう」ともたもたしていたら、息子の愛おしい一瞬は確実に逃げていたはず。
いい写真が撮れる機材も撮れなきゃ意味がない。育児時期においてのスマホの打率の高さに、私は間違いなく助けられていました。
それでも、久しぶりに外でシャッターを切って
そんな日々を経て迎えたある週末、少しだけ心に余裕があった日、家族でお出かけする機会がありました。「久々に持っていくか」とふと思い、久しぶりにカメラバッグを背負って出かけました。
久しぶりに屋外で手にしたカメラの液晶を覗く感覚は、スマホのそれとは全然違う。

もう少し寄ったほうが、もう少しズームしたほうが、もう少し暗いほうがと、自分の好きな雰囲気の写真に近づける方法を考える。半分無意識な「ちゃんと撮ろう」というあの感覚が、やっぱり楽しかった。
息子と妻がいるので、もたもた写真を撮っている時間はありません。それでも、一瞬の隙を見て「いい写真が撮れたかも」と思える1枚が撮れたときの満足感は、カメラならではの特別なものでした。
スマホもカメラも写真は撮れる。だから使い分ける
どんなにカメラの写真が好きでも、日々の目まぐるしい日常の中で無理にカメラを構えようとすると、どうしても「ちゃんと撮らなきゃ」と身構えて、心に小さな負荷がかかってしまいます。だからこそ、普段の何気ない瞬間はスマホの「雑になれる気楽さ」に頼ればいい。
そしてもう一つ、カメラを持たずに過ごした時間で気づいたことがあります。それは、「カメラばっかり覗いているのも、もったいないな」ということです。ファインダーを通して見ると、どうしても写った相手やものを「被写体」として見てしまいがちです。でも、せっかく目の前に大切な人や素敵な景色が広がっているのに、自分の目で見ないのはもったいない。
逃したくない瞬間はスマホで気楽に残す。心と時間に余裕があるときはカメラでじっくり撮る。どちらが正解というわけではなく、その時々で使い分ければいい。そう思うようになりました。
